● パラサイトシングル
今年の春頃までこんなコマーシャルがイギリスのテレビ局でよく流れていました。
イギリスのある典型的な中産階級の家庭。台所では電子レンジが「チン」という音をたて、夕食と思われるシチューの調理がちょうど終わったところ。居間には暖炉赤々とが燃えて調度品を暖かい光で包んでいる。そしてカメラはゆっくりと台所から居間に移り、ソファに座る60代くらいと思われる夫婦に焦点があてられる。
「あなたたちが大学を出たばかりの頃は、少しの間なら家にいてもいいと言ったけど、それからもうずいぶん経ったわよね・・・。」カメラは夫婦の前のソファに座った、30代後半と思われる男性とそれより若干年下と思われる女性に移る。無邪気な顔で両親を見つめるふたり。
「サイモン、あなたの会社は世界中に支店があったわよね。どこでも働けるわけだ。」と母親。サイモンはいまだに両親が何を言いたいのかわからない。
「ビクトリア、おまえもそろそろ考えてもいい頃じゃあ・・・。」「結婚」という言葉を切り出せない父親。父の心を察しようともしない娘。
そこへサイモンの取引上のお客さんである日本人男性3人がやってきて、子供にさりげなく独立を勧めようという両親の企ては中断される。「おかあさん、この人たち、お夕飯までいてもいい?」というサイモンの言葉と絶望的な両親の姿が移り、"Nothing like British Gas home"という字幕が出てコマーシャルは終わります。"There is nothing like home"(我が家にまさるものはない)という慣用句をふまえたものです。
これは、近年の自由化を受けて電力市場に進出したブリティッシュガスの宣伝ですが、あまりにも居心地がいいので、子供たちがいつまで経っても独り立ちしないという商業的メッセージを伝えるだけでなく、実はイギリスの厳しい現状を映し出しています。
「パラサイトシングル」という言葉が日本で流行っているということをわたしのネット友達でライターのヒロコさんが教えてくれたのは、今からもう2年くらい前のことになるでしょうか。親に寄生して独立しようとしない子供たち(30代なかには40代も)のことを言うそうです。家賃も住宅ローンもなし、座れば食事が出てくる、おまけに嫁・姑の問題に悩まされることもない。当時は、イギリス人は独立心が強く、子どもは経済的に独り立ちが出きるようになるや否や親元を離れたがり、親もまた、からだが丈夫な限りは、どんなに年をとっても、つれあいに死に別れても、自分の家に住みつづけて子どもの面倒にはならないと、ヒロコさんに答えたものでした。が、最近になってこの傾向もだんだんに変わりつつあるようです。
件のコマーシャルに見られるように、パラサイトシングル傾向は中産階級に主に見られるようです。労働者階級には、「学校を出たら早く仕事につき自立する。早く結婚してよい家庭を築く。」ということを理想とする伝統的な価値観があります。それゆえ、いつまでも親の面倒になり、自分の家庭を持たないというのは、この階級の美徳に反することになるわけです。一方、中産階級の場合には、コマーシャルに見られるように、義務教育を終えた後、高等教育に進み、大学を出た後も学生ローンの返済を終えて経済的に独り立ちができるようになるまで、しばらく両親の面倒になるというケースがよく見られます。また両親もあえて子供たちを追い出そうとはしないことが多いようです。
そのような階級による家庭観の違いはあるものの、階級に関わらず、最近はもっと切迫した理由により、子供たちは親との同居を続けざるをえなくなっています。それは住宅価格の高騰です。昨年7月から今年7月までの間に住宅価格は21%上昇し、過去13年で最大の伸び率を記録しました。また、イギリスの全国平均住宅価格は史上初めて10万ポンド(約1,800万円)を越えました。土地登記所の調査によると、昨年7月から9月の間の大ロンドン圏の平均住宅価格は、216,210ポンド(約3,900万円)にのぼっています。これでは、収入も少なく貯金もない若い人たちが家を買うのは絶望的です。
このメールマガジンを以前からお読みの方ならご存知のように、イギリスでは住み替えが伝統的であり、家を買い替えるたびに、さらに大きないい家に移っていくのがこれまでのイギリス人の住習慣でした。このような住み替えを "property ladder" (不動産のはしご)を登ると言いますが、最近では最初の1段が高すぎて若い人にはなかなか足をかけられなくなっているのが現実です。初めて住宅を購入する人の平均年齢は最近では34歳にまで上昇しています。
34歳でめでたく最初の住宅を購入できたとしても、次のハードルは住宅ローンの支払いです。家の値段が上がれば、当然住宅ローンの支払い金額も増えます。以前は、購入者が60歳までに返済し終わるように、住宅ローンは購入者の年齢に合わせて、25年、30年などがその主流でした。ところが近年の住宅価格の上昇に伴い、25年や30年では月々の返済額が大きくなりすぎるため、最近ではついに50年返済ローンなるものが登場しました。初めて住宅を購入する人の平均年齢が35歳なら、住宅ローンを返済し終わるのは85歳ということになります。最近、ある国会議員が国民年金の支給年齢を65歳から70歳に引き上げるという提案をして、国民の大反発をくらいましたが、住宅ローンの面からも65歳で引退するのはますます難しくなりそうです。60歳を越えて働き続けるというのが現実的でないとしたら、この住宅ローンの返済はどうなるのでしょうか?子供に受け継がれることになります。こうなるとたぶん子供もこの家に住むことになるでしょう。
昔は「不動産のはしご」の第1歩は公営住宅でした。若者が結婚して新しく所帯を持とうというとき、まず公営住宅を借りて住みます。地方自治体の補助付きですから、普通よりもずっと家賃は安くなっています。こうして、安い家賃を払いながら月々少しずつ貯金をして、自分の家を購入し、「はしご」を登り始めたわけでした。しかし、今日ではこれはまず不可能でしょう。公営住宅は亡命者や生活保護を受けている家庭などに優先的に割り当てられるため、働いて税金を払っているような人たちにおはちが回ってくることはまずありません。
8月15日に、高等教育を締めくくる最後の試験であり、大学進学に必須の資格であるAレベルの結果が発表されました。(イギリスの教育制度については、第31回を参照してください。)年々合格率が高くなり、その資格としての価値が低下しているのではないかという毎年繰り返される議論のほかに、今年は新しい話題が取り上げられていました。今までは大学進学をきっかけに親元を離れ、独立経験をしたいという子どもたちがほとんどでしたが、今年は住宅価格の上昇のためとても一人暮しは無理。そこで親元から通える範囲の大学を選ぶ若者が増えているということです。
このまま住宅価格が上昇を続けるとしたら、核家族化したイギリスの家族制度は変わってくる可能性もあります。パラサイトシングルが増える。あるいは、50年ローン返済のため2世帯が同居する。ブリティシュガスのコマーシャルはイギリスの未来を予言する水晶玉なのかもしれません。