● イギリスの国民医療制度(2)〜その問題点(1)
前回その仕組みについてご説明したイギリスの国民医療制度について、今度は問題点を今回から2回に分けてご紹介していきます。
前回では、日本の国民健康保険になぞらえて、NHSを国民健康保険と書いた箇所もありますが、実際にこの制度を保険と言えるかどうかというのは疑問な点もあります。本来保険とは、起こりうる偶発的な事故の脅威を受ける人たちが、予め一定の掛け金を互いに拠出しておき、実際に事故が起こった場合に、積立金を用いてその被害に遭った人に金を与え、損害を填補する制度ということのようです。が、NHSはこの拠出の部分がたいへんあいまいな状態になっていて、果たして保険と呼べるのかは疑問の余地の大いにあるところです。それよりは、むしろ原文の「サービス」という言葉のほうが実体を確実に表していると言えるでしょう。それを顕著に表す極端な例を次回に問題点の一番最後としてご紹介する予定です。
基本的に無料のイギリスの国民医療制度(NHS)は、本来、建前としては国民保険料(National Insurance Contribution)からその資金が拠出されていることになっています。国民保険料率は個人の雇用状況と収入の額によって異なり、計算がたいへん複雑なのですが、基本的には被雇用者は、週97ポンド(約22,000円)以上645ポンド(約147,000円)までの給料に対して11パーセント、それ以上の部分の収入については1パーセントが国民保険料として給料から天引きされます。雇用主側では被雇用者の給料の12.8パーセントを国民保険料として支払うことになります。現在では、この国民保険料は国民年金の拠出に使われ、NHSの資金のほとんどは各種の税金から来ているようです(ちなみに、イギリスでも国民年金は破綻状態に近く、今の若者たちが老齢に達したときには年金を受給することは不可能であるとも言われています)。2006・7年度のNHSの予算は960億ポンド(約19兆2,000億円)に上るということです。が、経費はそれを上回り、NHSは現在赤字状態で運営されています。昨年度の赤字は5億1千2百万ポンド(約1,770億円)に上りましたが、つい最近のニュースでは、政府は2008年までにNHSが黒字に転換することを目標としていると報道されています。
イギリスの国民医療制度の第一にして最大の問題は、慢性的な資金不足でしょう。国民の医療ニーズが上がってきていることもあるのでしょうが、NHSトラストの経営の悪さも問題になっています。総ベッド数より、運営に携わる人の数のほうが多いというのは、やはり経営に無駄が多いということなのでしょう。
資金不足は現実の問題として、多くの影響を及ぼしています。まず、ウェイティングリストの長さです。医師やベッドの不足からNHSトラストの運営する総合病院では、手術の待ち時間の長さが問題となっています。政府の発表するウェイティングリストは年々確実に短くはなっているようですが、これには統計上のごまかしも含まれているという説もあります。
もう10年近く前になると思いますが、夫が耳の痛みをおぼえて、当時のかかりつけのGPに行ったことがあります。点耳剤と抗生物質を処方してもらいましたが、念のためにということで、総合病院の耳鼻咽喉科医にも照会してもらいました。その後しばらく経って総合病院から手紙が来ましたが、予約された診察の日付はなんと6ヵ月後でした。その間にすっかり夫の耳はよくなりましたが、予約の日の1ヶ月前に再び病院から手紙が来て、諸事情により専門医による診察はさらに2ヶ月先に延びるとのこと。結局、この予約はキャンセルしましたが、なんとも気の長い話です。
今年の夏のイギリス滞在中に、わたしもやはり専門医のお世話になることがありました。まずGPに行くと、エコー検査が必要とのこと。総合病院で受けるとすると6ヶ月待ちだが(ここでわたしは椅子から転げ落ちそうになりました)、幸いこの診療所にはエコー検査の装置がある、結果によってはまた改めて総合病院で検査を受けることになり、二度手間になるかもしれないが、この診療所で検査を受けたいかと聞かれました。「ヨールディング診療所友の会」というチャリティー団体があり、いろいろなイベントを通して集めた資金や有志からの寄付金で、このエコー検査の装置も購入されたようです。早速GPでのエコー検査を予約しましたが、こちらは2週間ほど先で、6ヶ月待ちよりはずっと早く受けられることになりました。
エコー検査の結果、総合病院の専門医に診てもらうことになったのですが、最近はインターネットを使って、直接GPが専門医との予約を入れることが可能になったようです。コンピュータの画面を見ると、一番早い予約は2ヶ月後ということでした。6ヶ月という返答を予想していたわたしは、感動すら覚えてしまいました。が、わたしのGPの意見によると、悪性腫瘍の場合に備えて一刻も早く専門医に診てもらったほうがいいということで、優先扱いで専門医に照会してくれることになりました。優先扱いの場合、予約の日時は指定できないが、2週間以内に専門医に診てもらえることが保証されているそうです。エコー検査6ヶ月待ちと聞いたときには、もし重大な病気だったら、それまでに死んでいるぞと思ったものですが、実はこんな裏技があったのですね。
これが木曜日のことで、翌日金曜日の午前中に病院の予約係から電話があり、翌週の火曜日に病院に来るようにとのことでした。GPが即座にわたしのカルテをファクスで送ったためすばやく対処することができたと病院の予約係は謙遜していましたが、思いのほかの早さにわたしは感謝と感激の言葉を繰り返してしまいました。NHSだって、やる気になればできるのだ!
こうして照会からわずか3営業日後に専門医に診てもらえることになったのですが、専門医のお見立ては手術をするか、4年間経過観察をするかということでした。つまり治療に全く急を要さないということです。こうなると優先扱い(ファースト・トラック)から一気にスロー・トラックに転落となります。結局、医者の勧めで手術をすることにしたのですが、ウェイティングリストは?と聞いてみると、5ヶ月待ちということでした。もう一方では4年間何もしないという選択肢もあるくらいですから、いつでもいいということなのでしょう。1月末までイギリスには戻らない予定だったので、3月の手術というのはかえって都合がよかったのですが、最悪の場合に備えて緊急手術の覚悟すらしていたわたしには、一度に気が抜ける思いでした。ちなみに、12月11日の報道によると、NHSトラストでは、2008年3月までに、手術の待ち時間を18週間にまで減らすことを目標としているそうです。18週間といえば聞こえがいいですが、4ヶ月半ということになります。わたしの手術5ヶ月待ちと比較すると、たいした改善とは言えません。
さて、以上が専門医の診察や検査・手術に関するウェイティングリストの話でしたが、急患受付の待ち時間の長さはさらに深刻な問題になっています。救急車で運ばれたお年寄りが、廊下に置かれた運搬台の上で何時間も待たされた挙句に息を引き取ったというような話が新聞を賑わしたこともありました。
7年ほど前に、夫が虫に刺されて腕が腫れ上がってしまっとき、週末だったこともあって、総合病院の急患受付に出向いて行ったことがありました。その晩は観察棟に空きベッドがないということで、運搬台の上で一晩を過ごしたのですが、この運搬台の置かれたところが子供の待合室でした。翌朝これを見とがめた看護婦が夫に向かって「ここは子供の待合室よ」と文句を言ったところ(彼の責任ではないのに)、うちの夫は「病院に来たときは子供だったんだ」と待ち時間の長さに皮肉まじりの冗談を言ったそうです。
急患受付の待ち時間の長さは、医師不足によるところが大です。通常、大学を出たての若い医師たちが急患担当になりますが、彼らは医者としては薄給な上、長時間労働を強いられ、常に精神的なプレッシャーにさらされています。これに加えて、最近は飲酒が原因で怪我をした患者が医師や看護婦に対して暴行を働く事件が急増しており、急患担当の医師の仕事を一層困難なものにしています。
NHSの資金不足はまた、サービスの質の低下という問題も引き起こしています。イギリスの病院は食事時の世話や洗顔などの身づくろいを含めた24時間看護が基本となっているそうです(とわざわざ書いたのは、最近、スペインではそうでないことがわかったため。スペインの病院では、患者の世話は家族や親戚がするものとされているところもあるそうです。家族制度の違いなのかもしれません)。
スペインに住むイギリス人の友人が最近イギリスで手術を受けたのですが、病院のサービスの悪さについて嘆いていました。急いでベッドをあつらえたらしくて、麻酔から覚めると、彼女の洋服はベッドの周りの床に散乱しており、その床もしばらく掃除をしたことがないかのような汚さだったそうです。看護婦はほとんどがアフリカ人で英語が通じず、こんなことだったら、スペインで手術を受けても同じだったと言っていました(ちなみに、スペインの病院では、一日に何度も掃除の人が病室に入り、病棟は輝くばかりに清潔だという話です)。彼女が入院した病院は、イギリスで住むのに最悪の場所としてナンバーワンに選ばれた北ロンドンのハックニー区にあります。
このような状況ですから、イギリスの公立病院では院内感染が深刻な問題となっているのも無理はありません。実はわたしが3月に手術を受けることになっているケント県の病院でも、今年になって院内感染で8人の死者が出ており、地元のテレビニュースでしばしばとりあげられています。GPで専門医に紹介してもらうことになったとき、「この病院でいいか?」("Do you feel comfortable with this hospital?")とGPに聞かれました。GPがこのような言いかたをしたのは、院内感染の事件を念頭においてのことでしょう。同じ地域内にはこの病院のほかにもう1つ病院があり、そちらを選ぶこともできたのですが、このような事件があった後はきっと一層衛生には敏感になっているのではないかと思われたので、こちらの病院に決めました。院内感染については、MRSAあるいはスーパーバグという名前で知られる黄色ブドウ球菌がイギリスでは有名ですが、実際には院内感染の多くはディフィシル菌というバクテリアによるもので、症状としては下痢が主なもののようです。しかし、お年寄りや大手術の後で抵抗力の落ちている人がかかると命取りになることがあり、この病院で亡くなった方たちも全員お年寄りのようです。ディフィシル菌による院内感染の発生例は、全国の65歳以上の患者の間で前年比17パーセント増ということで、深刻な問題となっています。
このようなNHSの問題点を反映して、最近とみに注目されているのが民間の医療保険です。前回では、NHSの仕組みをご紹介しましたが、この流れとまったく別に存在するのが、私立の病院をはじめとする民間セクターの医療機関です。次のNHSの問題点に移る前に、民間セクターの医療機関とNHSとの関係、および個人の医療保険について触れておきたいと思いますが、ここからは次号に譲ることにします。